2009/09/26

菅谷村郷土誌25 古蹟、古史の調査

  第二節 古蹟、古史ノ調査
菅谷城址
 畠山重忠ノ相地創築シタルモノニシテ現形菅谷(小川松山道)通リノ南数丁ニ位シ約三丁四方ノ丘陵ナリ。南方ハ東流セル都幾川ニ臨ミテ處々絶壁ヲナシ、大概五六丈ノ高峰連綴シ、北方ハ元宿ト称スル処ヨリ平地ニ高キコト二三丈ノ土堤ヲ以テ里道ニ沿フテ蝘蜒(えんてい)シ、東西復タ澗田谿窪ヲ以テ限リ、尚北面左右翼隅ニ、追手門、搦手門等ノ遺型在リ。現今陸田ニ変ジテ多ク桑楮其他農植ノ間、彼此ニ松柏ノ踈林、或ハ芽薄葛蘿ノ参差タルヲ認ムルノミナルモ、昔時天嶮ノ一壮郭墟タリシヲ偲バルルナリ。「梅花無盡蔵」ニ長享戊申八月十七日入須加谷之北平沢山問太田源六資康之軍営。「東地土産」ニ鉢形ヲ出デ須加谷ト云フ所ニ小泉掃部助ノ宿所ニ逗畄云々。「東鑑」元久二年六月ノ条ニ重忠十九日小倉郡(ママ)菅谷ヲ出デ云々。「宴曲抄善光寺修行日」結ブ契リノ名残リヲモ深リヤ思ヒ入間川此里ニイサ又トマラバ誰ニカ敷妙ノ枕並ベント思ヘドモ妹ニソハズノ森ニシモ落ル涙ノシガラミハ、ゲニ大蔵ニツキ川ノ流モ早ク比企野ガ原秋風ハゲシ吹上ノ梢モ淋シクナリヌラン。打渡ス早瀬ニ駒ヤナツクラン。タギリテ落ル浪ノ荒川行スギテ云々トアリ。此地ノコトナリ

義賢ノ墳墓 大字大蔵ノ東方、松山(まつやま)平(たいら)間ノ県道ノ傍ニアリ、現今新藤某ノ所有地ニアリ。久寿年中古墳畑中ニアリ。相傅ヘテ帯刀先生義賢ノ墳墓トナス。高三尺許リノ塔ナレトモ五輪モ缺損シ其中僅ニ梵字ヲ彫リタルヲ認ムル一石アルノミナリ。ソレニ雨覆ヲナシ注連ヲ張リ、土人ハ又尼御前ノ碑ナリトモ傅フ。義賢ハ六条判官為義ノ二男ニシテ帯刀先生又ハ多胡先生ト称ス。大蔵ハ昔帯刀先生義賢ガ武州大蔵館ニ居リシト云フ旧地ナレトモ、其遺蹟ノ確固タルモノナシ
長門本源平盛衰記ニ彼義賢去仁平三年夏ノ此上野國多胡郡ニ居シタリケルガ秩父次郎太夫重隆ガ養君ニナツテ武蔵國比企郡ヘ通ヘケル程ニ当國ニモ限ラズ隣國マデモ随ヒケリ
重隆ハ他本ニテハ重澄トナレリ。重澄ハ重綱ノ子ニシテ秩父太夫重弘ノ弟ナリ
「平治物語」待賢門ノ戦ニ義平ノ言ヘル詞
此の手の大得は誰人ぞ名乗れきかん。かく申すは清和天皇九代の後胤鎌倉の悪源太義平ト申者なり。生年十五歳武蔵大蔵の軍の大将として伯父帯刀先生義賢を討ちしより以来度々の合戦に一度も不覚の名を取らず。年積りて十九歳見参せんとて五百騎の真中へ破って入り云々

将軍沢 菅谷村ノ一大字ニシテ大字大蔵ノ南方ニアリ。坂上田村麿ヲ祭レル神社アリ。将軍沢ノ名モ之レヨリ起ルト云フ
此一村ハ往時上州世良田長楽寺領ナリシコト古文書ニ見エタリ。世良田長楽寺為修理用途奉永代寄進武蔵國比企郡南方将軍沢郷内二子塚入道跡在家壹宇並田三段毎年所當八貫文事
右依為氏寺為末代修理永代奉寄進者也然者及子孫不可致違乱背此之旨輩者永可為不孝仁仍自筆之状如件元徳二年八月二日源満義
世良田長楽寺所蔵文書ニ曰ク武蔵國比企郡南方将軍沢郷内為灯明用途田三段任家時申置之旨所奉寄進世良田御寺也若於違乱之輩者永可為不孝之仁仍寄進之状如件正安元年八月二日沙弥静真

千手堂 菅谷村ノ一大字ニシテ大字菅谷ノ西南ニアリ。入間郡黒須蓮華院観音堂鰐口ノ銘ニ武州比企郡千手堂寛正二年辛巳云々トアリ

平沢寺 大字平沢ニアリ。現今ハ廃寺トナレリ。享保ノ頃トカヤ其境内ニ続ケル地ニ土人長者塚トイヘル古キ塚ヲ堀リシニ古木ノ根ヨリ如法経筒一口出ヅ。銅製ニシテ尤モ古色アリ。久安四年ノ銘文アリ。東鑑ニ文治四年武蔵平沢寺院主被附僧求寛記トアルハ当寺ノコトナルベシ。何時ノ頃ニヤ一度廃寺トナリシヲ郡中平村慈光寺ノ住職重永天正ノ頃ニヤ中興セシト云ヘリ。宗長ガ東路土産ニ須加谷ニ至リ小泉掃部介ノ宿所ニ逗留シ其ノホトリノ平沢寺ニシテ連歌アリ。此ノ寺ノ本尊ハ不動尊。池ニフリタル松アリ。僧萬里梅無盡蔵長享二年八月ノ条ニ十七日入須加谷之北平沢山問太田源六資康之軍営於明王堂畔。ニ三十騎突出迎余。又云七月十八日須加谷有両上杉戦死者七百餘員馬亦数百疋。敬曰勸進沙門實典奉旋入加法経御筒一口右志者為自他法界平等利益也久安四年歳次戊辰二月二十九日戊午當國大主散位平朝臣慈縄方縁等藤原守道安部末恒藤原助員

八幡神社 大字菅谷ノ南方ニ鎌形ト云フ大字アリ。其ノ南方ニ鎮座セリ。当社ハ人皇五十代桓武天皇ノ御宇延暦十二癸酉年将軍坂上田村麿東夷征伐トシテ下向ノ時当所ノ塩山ニ到リ地景ニ感アリテ筑紫宇佐八幡神ヲ遥遷祭祀セラレ。仝十六丁丑年奥羽ノ國司ヲ兼テ再度下向ノ節社殿ヲ増築シ恭敬ヲ盡サレシヨリ郷民之ヲ産土神ト尊崇セリ。其後鎮守府将軍源義家木曽左馬頭源義仲右大将源頼朝及夫人北条政子等厚ク信仰アリテ何レモ神田ヲ寄附セラレ営繕ヲ加ヘラレテ社殿ノ結構壮麗シ極メタリト云フ。而シテ現今存在ノ神体ト云ヒ傅フルハ円頂法服ニシテ念珠ヲ把持セラルヽモノニテ傅教大師ノ彫刻ナリトゾ。又銅華蔓二個ヲ傅フ。一ハ円径五寸五分ニシテ弥陀ノ座像ヲ鋳出ス。傍ニ安元二丙申天八月之吉清水冠者源義高トアリ。一ハ円径四寸八分薬師ノ座像ヲ鋳出ス。左傍ニ貞和四戊子年七月日大工兼泰トアリ。其他ノ文字ハ磨缺シテ讀ム可カラズ。当社上古ハ当大字塩山ト云フ処ニ在リシヲ中古兵燹ニ罹リ社殿烏有ニ属シ、乃チ現今ノ地ニ遷セシヨリ以降ハ漸々衰微シタリシガ、天正十九辛卯年十一月徳川家康ヨリ社領二十石ヲ寄附セラレ、次デ代々将軍ヨリ朱印ヲ以テ該地ヲ賜ハリ来リシヲ、維新明治元戊辰年十一月之ヲ奉還スルニ至リ、仝七年ヨリ仝十一年□遽減録ヲ下賜セラレタリ。又当時ノ鐘ハ往時軍旅ニ奪ハレ、今秩父郡御堂村浄蓮寺ノ寳器トナル。銘ニ曰ク上州繰野郡板倉郷圓光寺鐘正慶二年三月云々
武州比企郡鉢形郷八幡宮鐘大檀那矢野安藝守文明十一年巳亥八月九日ト鋳リタリ

鬼鎮神社 大字志賀ノ内川島ニ在リ。古来口傅ニ寿永元年ノ創立ニシテ畠山重忠城砦ヲ菅谷村ニ築営セシ後、北門ノ守護神(里俗鬼門余)トシテ衝立久那土神ヲ鎮祭シタル神社ナリト云フ

   『菅谷村郷土誌』 1912年(明治45)?

2009/02/05

寄居町に新名勝地・玉淀が誕生 1931年

   寄居新名勝命名せらる
 県下大里郡寄居町は、秩父鉄道と東武鉄道東上線の接続地で、加ふるに最近八高線の通過に依つて、武蔵野の交通要路たる位置を占むるに到ったので、同町有志は町将来の発展を考慮し、荒川沿岸の雑木林を伐り払ひ、正喜橋を中心に約三十丁の遊覧道路を開鑿(かいさく)し、之れに桜並木を仕立て自然の風光に一段の雅致(がち)を発揮せしめ、前囘(かい)秩父の翠岱(すいたい)を背景として、天然の要害たりし鉢形城趾の岩壁を望み、荒川の碧潭(へきたん)に面し眺望頗(すこぶ)る絶佳(ぜっけい)、加ふるに象ヶ鼻(ぞうがはな)の奇岩、宗像(むなかた)三神を祀る神社、霊蹟藤田(ふじた)の聖天等古来有名なものがある。洵(まこと)に清遊好適の一大勝区を成す。此新勝地の命名に就(つい)て本県史蹟名勝天然記念物調査会委員鹽谷俊太郎氏肝煎(きもいり)となり、同会長たる松平本県学務部長に懇請の結果、松平会長は同所を玉淀(たまよど)と命名されたに就て、町民は四月廿九日天長の佳節を卜(ぼく)し、命名披露祝賀会を催し一同感喜して左のビラを配布して、今後一層設備の完成に努むる筈であると云ふ。

     寄居名所が
    天長節のよき日に
      命名されました
     玉淀(たまよど)と
    天長節のめでたい日に
      命名されました。寄居名所が玉淀と。

   玉淀の四季(短歌)
  花吹雪散る花ひらのおもしろく
        うかひ流るる玉淀の春
  山水の流れも清き荒川に
        あゆの香高し夏の玉淀
  なくむしの声は流れて涼風に
        月照り渡るたまよとの秋
  見渡せば鉢形あたり常盤木の
        いろまさり行く冬の玉淀

     『埼玉史談』2巻5号 1931年(昭和6)5月
碧潭(へきたん):青い水をたたえた淵。
常磐木(ときわぎ):松、杉などのように、年中その葉が緑色をしている樹木。常緑樹。冬木。
          玉淀観光協会の観光パンフレット(戦後)
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2011年4月

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